個性(自分らしさ)とは何か

現代では、幼稚園でさえ、「個性の尊重」という教育理念を堂々と掲げています。人間は一人一人異なった遺伝子を持って生まれて来ており、そもそも個性的な存在であるわけですが、それを尊重するというのは、どういうことでしょうか。

「個性の尊重」については、教育理念というより、むしろ道徳であると思いますが、問題は、幼いうちから個性を重要視し、一人一人の中に眠るダイヤの原石のように捉えることにあると思います。

本来個性というものは、持って生まれて来るものではなく、社会の中でもまれながら、自らの独自性に気づき自覚し、培って行くものではないかと思います。自分らしさの根拠が自分の主観的な思い込みでは、大変心許ないし、意味がないからです。

1971年にリリースされた『あの素晴らしい愛をもう一度』という曲に、「あの時 同じ花を見て 美しいと言った二人」というフレーズがあります。同じ花を見て、同じ気持ちになる。それが心と心が通うということです。つまり、共通だから、同じだから、意味があるのです。

人との違い(異質性)という側面からばかり個性や自分らしさを捉えようとしても意味がないと思います。また、自分らしさ、あるいは本当の自分というものは、自分自身の中に探し求めてみても、見つかるものでもないと思います。

美しい花を踏み潰したり、人や動物を虐待するような人も世の中にいます。これのどこが個性でしょうか。個性に価値を置きすぎる風潮は、いかがなものかと思います。

◇雑感
もともと特別なオンリーワン♪そのとおりだと思う。ただ、その言葉に唯一性という価値がかなり重く負荷されているから、オンリーワンにもなれない自分は価値がないなどと思わないでほしい。個性は、社会の中で芽生えるもの。まずしっかり型にはまること。

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(2014年3月2日掲載)
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この記事へのコメント
1. Posted by ノラ猫   2014年04月15日 12:27
どすこいさん
「本来個性というものは、持って生まれて来るものではなく、社会の中でもまれながら、自らの独自性に気づき自覚し、培って行くものではないかと思います。」
どすこいさんのこの個性の捉え方、私もそう思います。でも私はそれは数ある個性の一面の捉え方だと思うのです。
というものはやはり遺伝子によって受け継がれているものも少なくないと思うからです。
その種がどすこいさんの社会にもまれ、自分なりに形成され育ってていくのではないかと思うのです。
自分で言うのもおかしな話ですが、我が家は皆個性が強いです。その個性の強さのお陰で随分辛い勉強を沢山されられました。
娘の学校時代は、出来ない子と出来過ぎる子は授業から切り捨てられ、教師の言う通りにする子が良い子であり、優等生となっていたのです。
自分で言うのもおこがましい話ですが、私が娘と学校のパイプ役になっていなければ娘は今の教育に潰されていたでしょう。
私は娘のように「個性」という概念を無視して問題児とレッテルを貼られたために潰され、矯正されてしまった個性を私は本当にもったいなく思います。
今では本当に幼稚園まで個性の時代ですが、私はどすこいさんと違った意味でこの自体を受け入れらる事はできません。
どすこいさんのおっしゃる通り道徳教育と躾、この二つが全く無視されているからです。
何でも個性にして押し通してしまうモンスターペアレンツ。
親にも道徳教育が必要と思うのは私だけでしょうか。
2. Posted by 運営者どすこい   2014年04月15日 18:08
ノラ猫さん
逆説的だけど遺伝的な個性(種)は誰もがみな持っているという意味で無個性であり、尊重という点でいえば、むしろそういう意味での「無個性」性(つまりみな「同じ」であること)こそ、その対象とすべきかもしれないね。それが種を育てる土壌にもなるのではないかと思う。
だから、道徳教育と躾の必要性については私も全く同感で、個性に価値を置きすぎる今の世の中の風潮が、モンスターペアレンツの温床にもなっているんじゃないのかな。個性至上主義の社会は、(親だけでなく子にとっても)忍耐の要らない社会だからね。反面、教員にとっては非常に厳しい社会だね。
3. Posted by ノラ猫   2014年04月15日 21:18
どすこいさん
どすこいさんのおっしゃる「だれもがもっている種」だからこそ無個性というお考えですが、一種類の種なら納得できるのです。
でも、同じ条件の畑に無数の種を蒔いた。
その種はみんな同じではない。柿かもしれない、桃かもしれない。ぶどうかもしれない。
一斉に目を出し、それぞれの個性で成長する。
でも、管理する教師はそれぞれにあった剪定をする事ができていない。つる植物のぶどうと柿を一緒にまとめてしまっては両方共枯れてしまいます。
正に今までの教育は全て一緒くただったように思うのです。だから、娘のように親の支えが必要となってくる。
言ってしまえばコロコロと教育方針を変える文科省自体に問題があると思うのですが、申し訳なく思いますが教師の質、親の質の低下もこの個性問題とモンスターペアレンツを生み出したのではないでしょうか。
「たった一つの花」私もあの歌詞には同調できません。お互いに違っていてこそお互いの美しさ、そして助け合いの心が生まれるのではないかと思うからです。
ちなみにあれほど「学校がきらい、先生はもっと嫌い」と言っていた娘は今、なんと教師を職とし毎日キツイ仕事ながらも充実しているようです。娘曰く、
「私のような思いをする子供をひとりでも減らしたいそうです。」
4. Posted by 運営者どすこい   2014年04月16日 05:52
ノラ猫さん
私の言う「同じ」は、“種”に関してではなくて、“持っていること”に関してなんだけどね。つまり、「同じ“人間”」だということ。自分以外の他の人も大切にし、お互いに認め合うことのできる心は、この感覚なくしては生まれないと思う。
人それぞれが持っている個性を、初めから何になるかが分かっている植物の種に例えてしまうと、その種に応じた栽培方法が必要だとなって、結局、個性至上主義に行き着いてしまうと思うけどな。
柿になるかも桃になるかも分からないある一定の期間は、極端に言えば「全て一緒くた」で良いと思うし、それが道徳を始めとする教育や躾というものの本来の姿ではないかと私は思うよ。Aさんだけの道徳、Bさんだけの算数など、意味がないからね。
このような教育や躾を施すと画一的な人間が出来上がるかといえば、決してそんなことはないのであって、なぜなら誰もが違う種を持っているからです。やがてどうしても『型』に収まらない部分が出てくるはずで、だからこそ自らがそれに気づくことができ、その時が、個性を伸ばして行くスタートではないかと思う。
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